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伊那谷の城跡(1) 春日城跡、一夜の城

伊那谷は長野県の南にあり、天竜川に沿った南北に細長い地形で、太平洋側と日本海側を結ぶ回廊のような位置にあります。

古くから太平洋側の東海地方と山国信州を結ぶ交通の要衝だったため、戦国時代には多くの武将たちが勢力を競い城を築きました。
伊那谷には、これらの城跡が今もなお各所に残されています。

伊那谷の魅力のひとつは、こうした城跡を訪ねて歩くことができるところにもあります。

ただし、城といっても良く知られている姫路城や松本城のように立派な天守や石垣があるわけではありません。
伊那谷に残されているのは、山を削って作った堀や土を盛り上げて作った郭(くるわ。曲輪とも書く)の跡で、いわゆる「土の城」なのです。
お城愛好家の中には「土の城」にたまらない魅力を感じる方もおられますので、そうした方々にとって伊那谷は格好のお城巡りの場といえます。

春日城址

城巡りの第一弾は、伊那市にある春日城址です。

「春日城址」はJR伊那市駅から徒歩20分くらいの距離にあり、市街地からそのまま上がっていける小高い丘の上に築かれています。
地元では桜の名所として知られていて、春には花見で大いに賑わいます。

「春日城址」公園の上り坂
「春日城址」本丸

城は天竜川の西側に位置し、河岸段丘の崖を利用した堅固な作りとなっています。

「春日城址」二の丸と三の丸間の空堀

段丘の南東隅に本丸が置かれ、それを囲むようにL字型の二の丸、更にその外側に三の丸が位置して、それぞれの郭は深い空堀で切断されています。

「春日城址」二の丸から本丸に通じる橋

残念ながら三の丸の外側は市街地に同化されて往時を偲ぶのは難しくなっていますが、西側から三の丸、二の丸、本丸が配置された梯郭式の縄張りと言えます。

「春日城址」二の丸から本丸に通じる橋

本丸は、北と西にある2つの橋で二の丸と結ばれています。

本丸からは東側に天竜川と、その周辺に広がる伊那谷の風景が一望できます。

「春日城址」本丸から東側を望む

手前の山地の左奥にコヒガンザクラで有名な高遠城址があり、春日城の戦略的な位置づけも確認できるでしょう。

「春日城址」の魅力は、市街地から気軽に、戦国の城特有の深く刻まれた空堀や郭の、良好に残された遺構を体験できるところです。

また、晴れた日には南アルプスを遠くに見ることもできて、城址の静寂と雄大な風景を贅沢に楽しむひとときを満喫できます。

一夜の城

伊那谷の城巡り第二弾は、伊那市にある「一夜の城」をご紹介します。
「一夜の城」と書いて「いちやのじょう」と読みます。

「一夜の城」は、伊那市街から三峰川の左岸沿いに桜で有名な高遠城に向かう途中、桜井という集落にあります。近くにある八幡社の大きな森が目印になりますが、もしそれがなかったら探すのに苦労するような小さな城跡です。

「一夜の城」を北東側からみたところ

城は一辺約50メートル四方の単郭の縄張りで、東側中央付近に虎口と呼ばれる入り口が開いた簡単な構造となっています。虎口付近に残る小さな石積みと東側から南側にかけての土塁跡が辛うじて往時の面影を偲ばせますが、今回訪ねた時、内部は一面の麦畑となっていました。

東側に残る虎口

以前は右側の白い標柱に「一夜の城」と記されていたが、今は薄れて見えない。
一見面白みのないように見えるこの城跡ですが、しかし、実は、長野県内に数多残る城跡の中でも注目すべき価値をもっているのです。それは「一夜の城」という名前からも知れるとおり、この城が「付城(つけじろ)」または「陣城(じんじろ)」と呼ばれる種類の貴重な城郭遺構であるからです。

「付城」「陣城」とは、戦国時代に敵の城を攻める際に、攻撃側の拠点として臨時に築いた小さな城をいいます。臨時のものなので用が済めばそのまま打ち棄てられ、もともと遺構として残りづらい宿命にあるのです。

有名な例としては、豊臣秀吉が小田原城攻めで築いた石垣山城(神奈川県)があります。ある日突然、山の頂に石垣と白壁に囲まれた立派な城が現れ、籠城している小田原方を驚かせ戦意を喪失させたという、あれです。

夏草に埋もれて虎口付近に残る石積み

「一夜の城」は、天正十年(1582年)3月、織田信長の命をうけた嫡男信忠が武田信玄の五男仁科五郎信盛(盛信)が守る高遠城を攻めるために突貫工事で築いたものとされています。
しかし近年の調査では、もともとこの地にあった土豪の館を信忠が接収し、土塁や堀を改修して陣城としたのではないかと推定されているようです。

ちなみにこのとき織田軍は総勢約3万の大軍で守備兵3千の高遠城を攻め信盛はじめ多くの兵が戦死、高遠城は僅か1日で落城したといいます「甲州征伐」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

城跡の北側に残る石塔

このような歴史を秘めた「一夜の城」ですが、実は何年か前に、道路拡張のため城跡の一部を削り取ることが計画されていると地元の新聞に報じられたことがありました。近隣の住民の方々にとっては幅の狭い道路は使いづらく事故の危険性もあるため改修したい、しかし戦国時代の貴重な遺構を守り後世に伝えることも大切と、様々な議論が出ているとの報道だったと記憶しています。その後の経緯は分かりませんが、幸い現在でも城跡は改変されることなく残っています。

歴史の記憶をとどめた「一夜の城」、知恵を出し合うことで永く残されることを願うばかりです。


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