オープンソースへの視点(2) 貨幣経済と分業化社会

都会で生活している人が毎日食べる食事は、近くの農村、遠く離れた農村や外国で採れた野菜や、米、牧場で育てられた家畜から作られたものである。例えば農村でどのように米が作られているか全く知らない人も多いのではないかと思う。しかし、私達が食事に払うお金は、回りまわって米を作っている農家に渡り、農家の人たちはそのお金で生計を立てているのである。

現代は分業化社会であって、それぞれの人が高度に専門分化された職についている。お互いの生産したものを交換するにあたり、価格をつけ、貨幣で支払い、貨幣をもらった人は、その貨幣で他の人の生産した財を購うことができる。これは、現代社会で生活している人にとっては常識であろう。

他の人の作ったものに対して喜んでお金を払う。作った人は買ってもらって喜ぶ。このようなことから「売って喜び、買って喜ぶ」という商売の言葉が生まれる。これは、ただ単に商売に成功するための言葉ではなく、現代のような貨幣経済型の分業化社会でお互いに発展していくための基本でもあると思う。

皆が、安さを追求し、引いては「無償」という言葉が検索のキーワードのトップになるような状態になると、上に述べた貨幣経済の基本が成り立たなくなり、経済全体がデフレスパイラルに陥り、縮小していってしまう。その行き着くところは、失業者の増大、ホームレス、炊き出しのスープを求めての長蛇の列ができるという悲惨な社会であろう。

オープンソース運動は、ソフトウエアを無償で提供するということを義務付けている訳ではない。しかし、実際にはオープンソースのソフトウエアを高い価格で販売することはできない。そして、現在、オープンソース運動が注目を集めている大きな理由に、安い、あるいは無償であるということがあるのは確かである。これは、上に述べたような現代社会の枠組みの中では不自然であまり発展性のない考えだろう。

このようなことならオープンソースが普及していけば、ソフトウエア産業がデフレスパイラスに陥るのではないかと思う。この結果として、ソフトウエアの進歩が止まり、ソフトウエア技術者の失業が増え、ひいてはソフトウエア産業の発展が止まってしまう危険がある。繰り返して言うと安いからオープンソースを使うというような発想法は、貨幣を媒介にして分業化した社会の中では、マイナスの思考法なのであり、ソフトウエア産業の健全な発展には繋がらないと思う。

こういう風に考えると、オープンソースは人類の生成発展という観点からはマイナスのものであるということになる。結論を言えば、オープンソースは単に一時的な風潮であって、どこかで揺り戻しが来るだろう、将来に渡ってますます盛んになっていくことはないだろうと予想するのだが。

2003年12月8日
小林 徳滋
koba@antenna.co.jp